「アメリカではGentle Parenting(叱らない育児)が広がっています。
一見、とても良さそうです。
あなたはどう思いますか。」
この問いは、育児の是非を問うために投げたものではありませんでした。
実際に起きたのは
人がどこで“世界の厳しさ”を学ぶのか
という、もっと大きなテーマの浮上でした。
問いが触れてしまったもの
反応の多くは、「叱るべきか、叱らないべきか」という
二項対立から始まりました。
しかし次第に、話題は別の層へ移動していきます。
- 社会には理不尽が存在する
- 人はそれにどう適応するのか
- 適応力は、どこで獲得されるのか
ここで語られていたのは、育児手法そのものではなく
社会は変わらない前提で
人をどう準備させるか
という世界観でした。
「怒られた経験」は何を与えるのか
ある人は言います。
- 怒られた経験がある方が、
理不尽な他者に対応できるのではないか - 怒られ慣れていない人は、
何かあると折れてしまうのではないか
ここで重要なのは、怒ることを肯定したいのではなく
「耐性」は経験によって育つのか
という仮説が提示されている点です。
別の層で語られ始めたこと
さらに議論は進みます。
- 怒ることは暴力なのか
- 感情を見せることは悪なのか
- 親が感情を扱う姿を見せることも
学習の一部ではないか
ここではもう、育児論ですらありません。
人は、感情をどう扱うかを
誰から学ぶのか
という問いです。
見えてきた構造
この一連の流れから浮かび上がったのは、ひとつの構造でした。
- 社会には理不尽がある
- それを前提に人を鍛えるのか
- それとも理不尽そのものを減らすのか
そして多くの場合
私たちはこの二つを
無自覚に混同しています。
未完のまま、問いを残す
今回のやりとりで明らかになったのは、「正しい方法」ではなく
何を前提に
人を社会へ送り出しているのか
という視点でした。
この問いは、まだ途中です。
ただ、問いが浅くなっていないことだけは
確かだと思っています。
読者への問い
あなたは
人が社会に適応するために必要なものを、どこで学ぶべきだと思いますか。
家庭でしょうか。
学校でしょうか。
それとも
社会そのものでしょうか。