一時保護・児相問題

【子供を守るという仮面の下で】第9話 《解除の条件?》

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第8話|ようやく戻ってきた日──それでも残った「疑問」と「責任」

児童相談所との面談は、相変わらず週1ペースで続いていた。

9月下旬、担当者との最終面談が行われた。
ようやく「一時保護の解除」に向けた話し合いが正式に行われた。

本来であれば、警察から「事故だった」と判断された時点で、速やかに解除に向けて進むべきだったはず。

しかし、そこには“行政らしさ”ともいえる独特の鈍さがあった。

私たちの想いとは裏腹に、児童相談所は形式的な手続きを繰り返し、結論が出るまでさらに数日を要した。

そして、もう一つ納得できなかったのが

「今後、児童福祉司指導の行政処分として、引き続き3ヶ月ほど経過を見させていただきます。その上で、正式に全て終了とさせていただきます。理由は、次女さんの発達における家庭支援になります。」

という一言だった。

警察の捜査では「過失傷害」とされたものの、児童相談所側は「ネグレクト(育児放棄)」という判断を最後まで撤回しなかった。

私は問うた。

「警察が事故と判断し、私が挟まった娘を助けようとした行為が"過失"として処理されたのに、なぜ児相は"虐待"だと言い張るのですか?」

職員の答えはこうだった。

「たとえば、自転車で子どもが転んだとしても、怪我の程度が重ければ、それは保護者の責任、つまりネグレクトとなりうるんです。」

「医療を受けさせるまで時間があったことは放置になり得ると所内で判断しました。」

という独自の判定基準を最後まで崩さなかった。

児童相談所は、過失の意味を全く理解していなかった。

そして、祝祭日に異常に気がついて緊急外来に連絡をしてプロから緊急性なしとフィードバックをもらっている状態にも関わらず、その翌日に医療を受けさせた。

誰がどう見ても親の責務を果たしている。

しかし、上記の言い分も”親の言い訳”として世間から見ればバッシングを受ける対象となるのだ。

なぜならデータ上で、私たちは立派な"ネグレクト(育児放棄)親"となっているからだ。

この基準は、いったい誰のためのものなのだろう。

親が100%全ての危険を予見できない現実の中で、"結果の重大さ"だけをもって親の責任にされるのだとしたら、事故と虐待の境界はあまりに曖昧すぎる。

そして、帰ってきた──2024年10月9日。

ついにその日がやってきた。

私と妻、そして長女の三人で、次女を迎えに行った。

小さな手。
変わらぬ笑顔。
何度か面会はしたが
でも少し、成長したような雰囲気。

家族で記念撮影をした。
すぐに親族へも報告した。

あの8月15日から、実に56日ぶりの帰宅。
次女は私たちの腕の中に、ようやく帰ってきた。

記念撮影をして、親族に報告した。

みんな喜んでくれた。

こんな当たり前が、親が子と居る権利。子供が親と共にいる権利を、一行政職員の裁量で決めることができる法がこの国にはあるのだ。

問いかけ

私はこの一連の出来事の中で、何よりも「親であることの責任」を突きつけられた。

我が子を守るというのは、ただ愛することではない。
そこには、行政や社会の視線に晒されながら、常に説明責任を果たすという現実がある。

知らなかった。
誰も教えてくれなかった。
でも、それでも許されないのが「親」であることなのだと、痛感した。

日々、学ばないと子供を一人前にできない。

そう思わされた事件であり、また一つ、成長できた、家族の絆が深まった重要な出来事であった。

あなたなら、この出来事を“虐待”(育児放棄)だと判断しますか?

私たちのような家族が、また現れるかもしれない。
だからこそ、この物語を、あなたの「問い」に変えて、残しておきたい。


担当刑事の話。複雑に絡み合う心情と、仕組みの中で、
自分に起こった出来事を解釈するのかを学んだ話。⬇︎

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